失はれる物語 乙一     1  妻は結婚するまで音楽の教師をしていた。彼女は美しく、生徒からの人気も高かった。結婚後も、以前に教えていた女子生徒から年賀状が届いたり、男子生徒からラブレターが送られてきたりしていた。彼女はそれを大事そうに寝室の棚へしまい、部屋の片づけをするたびに眺めて顔をにやにやさせていた。  彼女は子供のころからピアノを習い続けていた。音大を卒業し、彼女の演奏はプロのものと変わらないように聞こえた。なぜピアニストにならなかったのか不思議だった。しかし、耳の肥えた人間が聞けば、彼女の演奏にもどこか疵《きづ》があるらしかった。結婚後も彼女は時折、家で演奏した。  自分には音楽の素質がなく、音楽家の名前を三人も挙げられないほどだった。よく彼女は僕の前でピアノを演奏してくれたが、正直なことを言うとクラシック音楽のどこが良いのかわからなかった。歌詞のついていない音だけのものを、どのように聴いて楽しめばいいのか難しかった。  知り合って三年後に彼女へ指輪を贈った。結婚して自分は彼女の両親の家でいっしょに住むことになった。自分の肉親はすでに亡くなっており家族と呼べるのはしばらくいなかったが、結婚と同時に三人も増えることとなった。それから一年が経過すると家族はさらにもう一人追加された。  娘が生まれてしばらくしたころ、自分と妻との間で諍いが多くなってきた。自分たちはお互いに口が達者なほうだった。それが悪い方に影響したのか、双方が主張しあい、夜中まで些細なことで議論した。  最初のうちはそれが楽しくもあった。相手の意見を聞き、自分の意見を言い、考えを受け入れたり拒否したりするうちにお互いの心の形が見えてきて接近している気がした。しかしやがてそう言った議論の最後を、相手より優位に立って終わらなければ気がすまなくなった。  義理の母が泣いている孫をあやしている横で、自分と妻は言い争いをした。つきあっているうちは相手のいいところを見ることが多く、疵が見えてもそれを愛することができた。しかし結婚していつも接近した状況でいると、その疵がいつも目の前にあり、お互いに嫌気がさすらしかった。  相手を負かすために傷つけるようなことも言った。本心ではない言葉が、相手より優位に立ちたいがためについ口から出てしまうことさえあった。  だからといって彼女のことが嫌いになったわけではなかった。それはどうやら妻も同じらしいと、彼女の左手の薬指にはまっている指輪を見て感じた。だからよりいっそう、なぜ一歩ずつ歩み寄れないのか不思議だった。  彼女はピアノを演奏するときだけ、気が散るからと指輪を外して傍らに置いた。以前はそれを見ても何も感じなかったが、諍いをするようになってから後は、結婚せずにピアノの教師を続けていればよかったという彼女の無言の主張であるように感じる瞬間があった。  自分が交通事故に遭ったのは彼女と喧嘩をした翌日のことだった。会社へ行くために車庫から車を出したとき、自分の目は、青く茂らせた木々の若菜を見た。五月の晴れた朝に葉は朝露の水滴をつけて輝いていた。運転席に乗り込むとエンジンをかけてアクセルを踏んだ。会社までは来るまで二十分ほどだった。途中、交差点の赤信号で停車した。青になるのを待っていると運転席の窓が不意に暗くなった。振り返るとトラックの正面が陽光を遮って目の前にあった。  自分がいつから目覚めていたのかわからなかった。あるいはまだ眠っている状態にいるのではないかと思った。周囲は暗闇で光は一切なく、どのような音も聞こえてこなかった。自分はどこにいるのだろうかと考えた。体を動かそうとしたが、首をめぐらせることさえできなかった。全身に力が入らず、皮膚の有無さえわからなかった。  唯一、右腕の肘から先にだけ痺れる感触があった。腕や手首、指先などの皮膚が、静電気で覆われているように感じられた。腕の側面にシーツの感触らしきものが当たっていた。暗闇の中でそれだけが外界からの刺激だった。その感触により、自分はシーツの上へ寝かされているらしいとわかった。  自分のおかれている状況がわからず、混乱と恐怖に襲われた。しかし、悲鳴をあげることも、走って逃げ出すこともできなかった。目の前にあるのは、無限の距離を持つそれまでに見たこともない完全な暗闇だった。その暗闇が晴れて光が差すのを待ったが、一向にその時間は訪れなかった。  静寂の中には時計の秒針が動く音さえなかった。そのため時間経過は定かでなかったが、やがて右腕の皮膚が温かみを感じはじめた。陽光を肌の上に受けたときいつも感じる温もりだった。しかし、それならなぜ自分には太陽に照らされた世界が見えないのかわからなかった。  自分はどこかへ閉じ込められているのではないかと思い、体を動かしてその場から逃げようと思った。しかし体は動かず、右腕以外の箇所は闇の中へ溶けてしまっているように感じられた。  右腕ならば動くかもしれないと思い、そこに力を込めた。他の部位を動かそうとしたときには感じられない手応えがあった。筋肉がかすかに伸縮し、人差し指のみ動く感触がした。濃い暗闇の中で本当にそうなったのかを確認する手立てはなかった。しかし、人差し指の腹とシーツの擦れあう感じから、指がかすかに上下していることを覚った。  音のない暗闇で人差し指を動かし続けた。自分にできることはそれしかなかった。どれだけの時間そうしていたのかわからず、何日も同じ動作を繰り返していた気がした。  不意に人差し指をだれかが触った。皿洗いを終えたばかりのような冷たい手の感触だった。それが手だとわかったのは、細い指が絡みつくような感触を人差し指の周辺に感じたからだった。その人物の歩く足音さえ聞こえず、暗闇の中から手の感触だけが唐突に出現したようだった。驚いたが、自分以外の存在があるということに喜びを感じた。  その人物はまるで慌てるような手つきで人差し指を握り締めた。同時に腕の上へ手のひらの感触も受けた。指に触れてくれた人物がもう一方の手を置いたのだろうと思った。右腕の表面が感じる圧迫の中に、金属のものらしい硬く冷たい感触を見つけた。  腕に手を置いた人物の指に指輪がはまっており、それが皮膚の表面に当たっているのではないかと推測した。左手に指輪をはめている人物が一人、すぐに思い浮かんだ。腕に触れているのはどうやら妻だと理解した。彼女の声や足音、布擦れする音さえなかった。暗闇のせいで彼女の顔もわからなかった。ただ右腕の皮膚の表面に彼女の手が触れたり離れたりするのを感じるだけだった。  彼女の手の感触が消え、自分は再び暗闇へ取り残された。二度と彼女が戻ってこないのではないかと想像し、必死に人差し指を上下させた。自分はなぜか視界を失っているが、彼女にはどうやら周囲が見え、、歩き回れるらしかった。おそらく自分の動かす人差し指も見えるだろうと考えた。  やがて再び右腕にだれかの触れる感触があった。それが妻の手でないことはすぐにわかった。固い皺のある年老いた手だった。それがまるで調査するように指や右手のひらへ触れた。その手は人差し指をマッサージするように動かした。自分は必死に指へ力を込めた。その年老いた手は、まるでこちらの力を測るように指を握り締めた。そうされると年老いた手に張り合うこともできず指は動かせなくなった。指を動かせるといっても一センチほどを根元からかろうじて上下させられるだけで、少しでも固定されたらだめになるらしいと自ら覚った。  やがて針のような尖ったものを人差し指の腹に当てられた。痛みで自然に指が動いた。その直後に針の感触は消えたが、すぐに次の手のひらを刺された。暗闇で音もなく急に痛みが発生すると、不意打ちを食らったように驚いた。半ば抵抗の意味も含んで指を上下させると針は取り払われた。どうやら人差し指を動かすと針が抜かれるという法則があるらしかった。  針は右手のいたるところに刺された。親指や中指、手の甲や手首にも痛みが走り、その度に指を動かさなければならなかった。針の刺される位置は、手首から上のほうへ、腕を少しずつ移動した。そのうち顔を刺されることになるのではないかと危惧したとき、肘の辺りで急に痛みを感じなくなった。ついに針で刺すことを止めたのだろうと最初は思った。しかし自分は、右腕の肘から先以外の場所に皮膚があるという気がしなかった。肩や左腕、首や足などに針を刺されていたとしても自分には気づかないはずだった。  自分に痛みが感じられるのは、どうやら右腕の肘から抱きだけらしいと自覚した。静電気のような痺れが右腕のを覆い、ただその感触のみが、音も光もない暗闇の中で明確な形をとっていた。  やがて何者かが右手を握り締めた。年老いた皮膚ではなく、若々しい腕だった。細い指の感触から、妻の手だとすぐにわかった。  彼女は右腕をなで続けた。手の感触がこちらにはわかっているのだと示すため、必死に人差し指を動かした。彼女の瞳にその動きがどう映るのか想像できなかった。もしかするとただの痙攣として見えるのではないだろうかという危惧もあった。声が出せるのならすぐにそうしていた。しかし、自分の力で呼吸しているという気がしなかった。  しばらくすると、右腕の持ち上げられる感触があった。腕に当たっていたシーツの感触が消え、直後に、手のひらへ柔らかなものが触れた。彼女の頬の感触だとすぐにわかった。濡れる感触を指に受けた。彼女の頬は濡れていた。  彼女の手に腕を支えられたまま、腕の内側の皮膚に尖った感触を受けた。どうやら彼女の爪が当てられているらしいとわかった。  彼女の爪は絵を描くように皮膚の上を滑った。最初は彼女が何をやろうとしているのかわからなかった。何度も同じことばかり彼女は繰り返し、やがて爪は文字を書いているらしいと自分にもわかった。腕の皮膚に意識を集中し、彼女の爪がどのように動くのか知ろうとした。 「ゆび YES=1 NO=2」  ただそれだけの単純な文字を彼女の爪は書いていた。意味するところを理解し、人差し指を一回だけ上下させた。それまで同じ文字ばかり書いていた爪の感触が消えた。わずかな時間を空けた後、躊躇うような速度で妻は再び腕をなぞった。 「YES?」  一回、指を上下させた。妻と拙い意思のやり取りをする生活がそうしてはじまった。     2  自分にあるのは一面が黒色に塗りつぶされた完全な暗闇の世界だった。そこは静寂でわずかな物音さえ聞こえず、心はどこまでも寂しくなった。たとえだれかがそばにいたとしても皮膚に触れてもらっていなければいないも同然だった。そのような状態の自分に妻は毎日つきあってくれた。  彼女は多くの文字を右腕の内側に書き、暗闇の中にいる自分へ情報をもたらしてくれた。最初のなれないうちは皮膚上の感触に集中しても文字を判別するのが難しかった。書かれた文字がわからなかったときは人差し指を二回、上下させて否定の意味を表した。すると彼女は再び最初から腕の内側に文字を書いてくれた。その作業を行っているうちに文字の判別が上手くなった。彼女が指先で皮膚上をなぞるのと同じ速度で、彼女の綴る文字が頭に入ってきた。  腕に書かれた言葉を信じるなら自分は病室にいるそうだった。四方を白い壁に囲まれており、ベッドの右手側に窓がひとつだけあるのだと彼女は右腕に書いた。彼女はベッドと窓のある壁との間に椅子を持ち込んで腰かけているそうだ。  自分は交差点で信号待ちをしているとき、居眠り運転をしていたトラックに衝突され大怪我をしていた。体中の骨を折り、内臓もやられていた。脳に障害が起こり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚を失っていた。右腕以外の触覚も同じだった。骨は治ってもそれらの感覚はもう取り戻せないらしかった。  それを知った自分は、人差し指を動かした。心中でどれほど深く絶望してもすでに泣くことすらできなくなっていた。悲鳴を彼女へ伝える方法は指を動かすことしか残されていなかった。しかし彼女には能面のように無表情で横たわる自分がただ指をかすかに動かしているとしか見えないに違いなかった。  自分には朝が訪れたことを目で見ることができなかった。右腕が日差しの温かみを感じ、温もりが皮膚上を覆うことで夜明けを知った。暗闇の中で目覚めた当初に会った痺れはいつのまにか消え、少なくとも皮膚の感触だけは以前と変わらなくなった。  朝になりしばらくすると不意に妻の手が腕に触れるのを感じた。彼女が今日もまた病院に来てくれたことがそれでわかった。最初に彼女は「おはよう」と右腕に書いた。返事をするように自分は人差し指を動かした。  夜となり彼女が家へ帰るときは「おやすみ」と書いた。そして彼女の手の感触は闇の中へ消えた。その度にもう自分は見捨てられ、妻は二度と来てくれないのではないかと思った。眠っているのか起きているのか判然としない夜が終わり、日差しの温かみの中で再び彼女の手を右腕で感じると、自分は深く安堵した。  一日中、彼女は皮膚に文字を書き、天気のことや娘のことなどを教えてくれた。保険金や運送会社からもらえる賠償金があり、当分は暮らしていけるらしいとわかった。  様々な情報は彼女に教えられるのを待つ以外になかった。時間を知りたいとこちらが思っても、その要望を彼女へ伝える方法はなかった。しかし今日が何月何日であるのかは、朝に彼女が病室へ来た際、必ず右腕に書いてくれた。 「今日は八月四日です」  ある朝、彼女が指先でそのように書き、事故から三ヶ月が経過したのを知った。その日は昼ごろに病室へ来客があった。  妻の手が不意に右腕を離れ、自分は暗闇と無言の世界に取り残された。しばらくして小さな温もりが右腕に当てられた。それは汗ばむように湿っており、熱の塊であるように感じられた。それが娘の手であることをすぐに覚った。妻が右腕の上を爪でなぞり、彼女の両親が娘を連れて見舞いに来てくれたことを教えてくれた。一歳になる娘の手を、彼女は右腕に押し付けてくれたらしかった。  人差し指を上下させて義父母と娘に挨拶した。彼らは何度目かの訪問だった。妻のものとは異なる手の感触が右腕に次々と触れた。どうやら彼女の両親が挨拶のかわりに触れてくれたらしかった。皮膚上を撫でる彼らの感触にはそれぞれ特徴があった。皮膚が固かったり、ざらついていたりという触感の違いがまずあった。皮膚へ触れる面積や速さから相手の中に恐れがあるのが見えることもあった。  娘の触れる手つきには恐れがなかった。まるで目の前にある物体がいったい何なのかわからないといった触れ方だった。自分の肉体は彼女の前では人間としてではなく、ただの横たわる塊として映っているのだろうと考えた。そのことは自分を打ちのめした。  義父母に連れられて娘は帰って行った。しかし自分は娘の手つきを思い出し胸が痛くなった。自分の知っている彼女はまだ喋ることができていなかった。事故に遭う前、自分を見て「おとうさん」と声に出したことさえなかった。それなのに自分は、彼女がどのような声で話すのかを知るよりも前に聞く力を失ってしまった。彼女が立ち上がって歩きはじめる様も見ることができず、頭に鼻を押し付けたときに嗅いだ匂いも永遠に失われた。  知覚できるのは右腕の表面のみだった。自分は右腕だけの存在になってしまったのだろうと考えた。自分はおそらく、事故で右腕が切断された右腕のほうに宿ってしまったのだ。自分は病院ベッドで横たわっているらしいが、右腕だけがそっとベッドに寝かされているのと変わらなかった。そのような状態の自分を見て、娘がそれを父親だと認識できるはずがなかった。  妻の爪が右腕の上をすべり、娘の成長を見ることができず悲しいかどうかを質問してきた。人差し指を一回だけ動かして肯定の意思を伝えた。 「苦しい?」  妻が腕に書いた。肯定の返事をした。 「死にたい?」  迷わずに肯定を選んだ。彼女の情報によると自分は人工呼吸器と点滴によって生かされているらしかった。彼女が少し手を伸ばして人工呼吸器のスイッチを切るだけで苦しみから解放されるはずだった。  妻の手の感触が腕から離れ、自分は暗闇へ置き去りにされた。自分には知ることなどできないが、今、彼女は椅子から立ち上がったのだろうと推測した。そしてベッドの周囲を回り、人工呼吸器の前へ移動してるのだろう。  しかしそれが間違っていたことを、不意に腕へ触れた妻の手の感触により知らされた。彼女は椅子から立ち上がらず、そばにずっと座っていたらしかった。  腕の上に触れているのは、接触面の形からどうやら左手のひらであるらしいとわかった。しかしその感触はどこかいつもと異なっていた。左手のひらが腕を撫でる際、いつもの皮膚上に感じていた指輪の冷たさがないのだと気づいた。どうやら彼女は指輪を外したらしかった。それがなぜなのかと考える前に、皮膚を叩かれる感触あった。  叩いたのはどうやら指らしかった。叩くといっても平手打ちのような強い力ではなく、一本だけたてた指をそっと皮膚上に振り下ろすという感じだった。まるで躊躇うように、何度か同じ場所を彼女の指は叩いた。何かをはじめる前の準備運動のようでもあった。  最初は妻が何かの合図を送っているのかと思ったが、連続的に叩かれる指の感触には、こちらの返事を待っている様子が見受けられなかった。  皮膚を叩いて指は最初のうち一本だけだったが、やがてその数が二本に増えた。どうやら人差し指と中指で交互に皮膚を叩いているようだった。受ける感触が次第に強くなり、彼女が指に力を載せて弾きはじめたのを感じた。  指の数は増えていき、ひとつひとつの弾かれる感触がいくつも連なっていった。最終的に十本の指が腕の皮膚上を一斉に弾いた。小さな爆発が連続的に皮膚の上で起こっているように感じられた。彼女の力が弱められると、今度は雨粒が腕の上をぼろぼろと転がるようだった。彼女は腕をピアノの鍵盤に見立てて演奏しているのだとわかった。  肘に近い部分が低い音の鍵盤、手首に近い方の皮膚が高い音の鍵盤、そう考えて刺激を感じると確かに彼女の弾く感触は音楽として連なっているように感じた。一本の指が皮膚を弾いた時の刺激は単なるひとつの点だった。しかしそれが連続して連なると刺激は腕の上で波の形を描いた。  腕の上が広いスケートのリンクへ変化したようだった。妻の指で引かれる感触が肘の辺りから手首の辺りまで一直線に滑ったかと思うと、まるで階段を小刻みな歩き方で下りてくるように手首から肘へと戻ってきた。地響きを起こすように多くの指が皮膚へ打ち付けられることもあった。カーテンが揺れるようなやさしさで十本の指先が腕の上を通り過ぎることもあった。  その日以来、妻はいつも病室に来ると右腕の上で演奏するようになった。これまで文字を書いていた時間が音楽の授業へと変わった。演奏の前と後、彼女は曲名と作曲者を腕に書いてくれた。自分はすぐにそれらを記憶し、気に入った曲のときは人差し指を動かした。自分では拍手のつもりだったが、その動きを彼女にどう受け入れられたのか定かではなかった。  自分にあるのは光の差さない深海よりも深い闇と、耳鳴りすら存在しない絶対の静寂だった。その世界で彼女が腕の上に広げていく刺激のリズムは、独房に唯一ある窓のようなものだった。  事故から一年半が経過し、冬が訪れた。  病室の窓を妻が開けたのか、右腕に外からの冷たい空気が触れるのを感じて驚いた。無音の暗闇ではだれかが窓に近寄る様も開ける様子もわからないため、腕に触れる冷機を事前に予測することができなかった。妻は病室内の空地を入れ替えているのだろうと考えた。室内の温度が下がっていくのを右腕の皮膚が感じていた。  やがて右腕に氷のような冷たいものを当てられた。どうやらそれは妻の指らしかった。直後にその指が腕の上に文字を書いた。 「おどろいた?」  人差し指を一回だけ動かして肯定の意思を伝えた。その返答を見て彼女がどのような表情を浮かべたのか自分には確認する術がなかった。  再び指が文字を書き、これから演奏をはじめると告げた。しかしその前に少しだけ指を温めさせてくれと彼女は続けて書いた。  温かく湿った風を腕の皮膚に感じた。彼女は掃く息で指を温めており、その吐息が腕の表面にまで届いているのだろうと推測した。温かい風が消えると、演奏がはじまった。  自分は彼女の指が弾く順番やその位置、タイミングなどをすっかり覚えてしまっていた。曲名を教えられずに演奏が始まってもすぐにそれが何の曲かわかった。彼女の指の動きを皮膚で感じていると、いつもその向こう側に何かが見える気がした。それは漠然とした色のかたまりであったり、かつて体験した幸福な時間のイメージであったりした。  同じ演奏を聴いても飽きることはなかった。それは日よって彼女の弾き方に微妙な差異が表れるからだった。曲を完全に覚えこんでしまうと、腕の皮膚に感じるわずかなタイミングのずれなどがわかるようになった。そこから発生するイメージの違いが、前日に聞いたものとは異なる景色を暗闇の向こう側に生んだ。  その微妙な差異こそが妻の内面の表れなのだと、いつからか自分は思うようになった。彼女の心が安らかなとき、皮膚上には、寝息に似た柔らかい指の動きを感じた。彼女の心に戸惑いがあるらしいとき、まるで階段を途中で転んで引っかかってしまうような瞬間があった。彼女は演奏に対して嘘をつくことができず、腕へ感じる刺激の向こう側の彼女のあるがままの本質が潜んでいるのだと思えた。  弾かれる指の刺激が肘から手首までゆらめくように移動した。自分は海辺に寝かせられ、海から打ち寄せる波がやさしく胸にかかっているような気がした。  事故に遭う前、彼女と多くの言葉で傷つけあったことを思い出した。後悔のために胸を焼かれた。彼女に謝りたかったが、その気持ちを表現する手段はもう自分にはなかった。     3  なぜ自分を死なせてくれなかったのかと、幾度も神様を呪った。このまま老人となり老衰で死ぬまで自分は数十年という時間を暗闇と無音の中ですごさなければならないのだ。そう考えるといっそのこと狂った方がましだった。狂い、時間の感覚も、自分が自分であることもわからなくなれば、どれほど安らかな気持ちになるだろう。  しかし、自分は、動くことも言葉を発することもできない状態で、考えるということだけを許されてしまった。いくら頭の中で思考をめぐらしても、見聞きすることや気持ちを表現することはできず、ただ光と音に恋焦がれるしかなかった。  自分の考えることを暗闇の向こう側で歩き回っているはずの妻たちに伝える方法がなかった。腕に書いてくれる質問へ人差し指で肯定か否定かを表すことはできたが、しかしそれだけでは足りなかった。外側から自分を見たとき、おそらくはベッドで横たわる無表情な人形として目に映るはずだった。しかし実はこの頭の中で常に様々なことを自分は考えているのだ。  それなのに考えていることを吐き出すには人差し指の上げ下げなどあまりにもはけ口として小さすぎた。心の中に様々な感情が膨れ上がっても自分にはもう笑うことも泣くこともできなかった。胸は常に限界まで水の溜まったダムと同じで、肋骨が内側から爆発しないのが不思議なほどだった。  自分ははたして生きていると言えるのだろうか。これはただの考える肉塊でしかなかった。生きている人間と肉塊との境界はどこのあるのだろうか。そして自分はそのどちら側に位置しているのだろうか。  自分はこれまで何かのために生きてきたというのだろうか。このような肉塊となるため母から生まれ、学校で勉強し、就職して仕事をしてきたというのだろうか。人は何も目的にこの世から生を受け、地上を這いずり回り、死んでいくのだろうか。  生まれてこなければよかったと考えた。いまや自殺することさえ自分一人ではできなくなっていた。もしも自分の血管に毒を流し込むスイッチが人差し指の下にあれば迷わずに押していた。しかしそのような機会を用意してくれるやさしい人間などどこにもおらず、それを指示する方法も自分にはなかった。  考えるということを止めたかったが、無音の暗闇で自分の脳みそだけは生きていた。  いつのまにか事故から三年が過ぎていた。妻は毎日、病室を訪れて自分につきあってくれていた。腕の皮膚に文字を書き、今日の日付や家であった出来事、世界のニュースなど、外界の情報を教えてくれた。彼女は一度も弱音を腕に書かず、今後もずっとそばにいるといいう姿勢をことの中に交えて勇気付けてくれた。  彼女からもたらされる情報によると、娘は四歳になり飛び跳ねることや言葉を話すことができるようになったらしかった。娘が風邪をこじらせて死んでしまっていたとしても、自分にはそれを知ることなどできなかった。日付を間違って教えられていても、家が火事で燃えてしまっていても、世界が滅びていたとしても、自分は妻の書くことを真実として受け止めるしかできなかった。  それでもある日、自分は妻の嘘に気づくことができた。それは彼女が右腕の上で演奏をしてくれているときだった。  彼女の指によって弾かれる刺激の連なりが様々なイメージを自分に見せてくれた。それはそのまま、彼女の頭の中のイメージと言っても良いはずだった。そこからうかがい知ることのできる彼女の姿は、腕に書かれる文字の内容よりもはるかに実体をともなって感じられた。  あるとき、いつものように自分は、彼女の指によって奏でられる音のない音楽に心の耳を傾けていた。それまでに繰り返し、何百回と聞いた曲を彼女の指は弾いていた。はじめて聞いたときは小刻みに動く指先の感触から、まるで子馬が駆け回っているような曲だと思った。しかしその日の彼女が弾いた曲からは、子馬の駆け回っている様子は連想されなかった。微妙な乱れがそうさせるのか、彼女の指から与えられるイメージには、疲れた馬が首を重たげに下げて歩いている様しか見えなかった。  何か妻にいやなことがあったのだろうかと思った。しかし、彼女が腕へ書く文字には暗い心を示す言葉など微塵もなく、いつものように明るい自分を勇気付けるような話をするだけっだ。自分は彼女に調子を尋ねることもできず、頭の表情を見ることもできず、ただ演奏と言葉の間にある矛盾した印象だけが心に残った。  しかし彼女の演奏に疲弊したイメージが混じったのはそのときだけではなかった。以来、彼女がどのような曲を弾いても、皮膚上に織り成す曲の中に明るさは見えず、そのかわり窒息と先の見えない絶望というイメージが入り込んだ。それは普通ならば気づかないほどの微妙な差異だった。おそらく彼女自身、いつもと同じように弾いているつもりだろうと考えた。  彼女は疲れているのだと覚った。原因は明らかに自分だった。自分が鎖となり彼女を縛り付けているのがいけなかった。彼女はまだ若く、いくらでも人生をやり直す時間があるはずだった。しかし、自分が中途半端に生きているせいで、彼女にはそれができないに違いなかった。  彼女がだれかと再婚したら周囲は非難するだろうか。それとも仕方のないことだと考えるだろうか。ともかく彼女は肉塊となった夫を見捨てることができないでいるのだ。毎日、病室に足を運び、右腕をピアノの鍵盤に見立てて演奏の真似事をしてくれた。  しかし内心では彼女も苦しんでいるに違いなかった。どのような明るい言葉で偽ろうと、彼女の指先は心の中にあるのを表現してしまっていた。演奏の中に垣間見た疲れた馬とは、おそらく彼女自身の姿だった。  彼女のまだ可能性に満ちているはずの残りの人生が、この肉塊につきあって日々を過ごしていくうちに消えていこうとしていた。自分は事故のために人生を失ったが、その看護のために病室へ通わなければならない彼女もまた同じだったのだ。彼女の中にあるやさしさが、この肉塊を見捨てていくことはできないと考えさせているに違いなかった。  自分はどうすればいいのかわからなかった。彼女を自由にさせなければならなかった。しかし彼女がいなくなるということは、自分が暗闇と無音の世界に一人で取り残されることを意味していた。また、何かと思いついてところで自分にはその考えを彼女に伝える方法がなかった。自分はただ彼女の決心に身を委ねることしかできなかった。  時間だけが過ぎ、事故から四年が経過した。時を重ねるごとに彼女の演奏は重苦しさを増していった。それはおそらく常人からは感じられない程度の微妙な感覚だった。しかし自分にとって彼女の演奏は世界のすべてに等しく、そのために強く彼女の苦しみを感じとった。  二月のある日のことだった。  彼女が明るい曲を腕の上で弾いてくれた。皮膚の表面を指が小刻みに叩く感触は、蝶がそよ風に乗りながらうろつき飛んでいる様を連想させられた。一見するとそれは穏やかなイメージだった。しかしその蝶をよく見ると羽根が血で濡れているように感じられた。どこかに降り立って休むことができず、苦しくても永遠に羽根を動かし続けなくてはならない運命を背負わされた蝶だった。  演奏をしばらく続けた後、中断して休憩をとりながら彼女は腕に文字を書いた。演奏とは裏腹に明るい世間話だった。 「爪が伸びているからそろそろまた切らないといけないわね」  彼女がそう書いた後、爪を調べるために人差し指を触った。自分は必死に指を動かし、触れている彼女の指に爪をたてようとした。皮膚を突き破り、血を出させ、殺してくれという心情を伝えたかった。  この情けない肉の塊を殺してほしかった。生を終わらせ、安らかにさせてくれることを祈った。しかし爪をたてるにはあまりにも人差し指の力は弱すぎた。彼女の指を押し返すことさえできず、呪いに満ちた気持ちをぶつけることはできなかった。  それでも指の皮膚を通じてこちらの気持ちがわずかにでも伝わったらしかった。演奏が再開したときにそのことを知った。  腕の上に降り立った彼女の指先は、まるで胸を掻き毟《むし》るように皮膚を弾いていった。彼女が腕の鍵盤でかなではじめたのはさきほどの明るい曲ではなく、どこまでも暗い穴へ落ち続けていくような曲だった。  奏でるという表現では生易しい弾き方だった。彼女の心の奥にあるものをそのまま指に載せてぶつけられている気がした。皮膚が彼女の爪で引っ掻かれるような痛みさえあった。その痛みは、自分の人生と、肉塊となった夫に対する愛情とを秤にかけなければならなくなった懊悩そのままだった。指先が皮膚に当たる度、何も聞こえなくなってはずの自分の耳は、彼女の悲鳴を聞いた気がした。腕の表面で生まれた彼女の演奏は、それまで自分が触れたどのようなものよりも狂おしい美を備えていた。  やがて弦が耐え切れず弾け飛んでしまったように演奏は中止された。皮膚の上に十個の鋭い痛みが並んでいた。どうやら妻の指先にある十本の爪が腕に突き立てられているらしかった。数滴の冷たい液体が落下した。どうやら妻の涙の雫だとわかった。  やがて指の載っている重みはなくなり、彼女は暗闇の向こう側に消えた。病室を立ち去ってどこかへ行ってしまったのか、しばらくの間、皮膚の表面に戻ってはこなかった。指が離れても爪の痛みだけは残っていた。一人で無音の暗闇に取り残されていた時間、自分は、ついに自殺する方法を思いついた。     4  不意に右腕の表面へ何かかが触れた。皮膚への接地面積からすぐにそれが手だとわかった。手には皺があり、表面は固く、腕を触る手つきには妻のものらしい愛情は感じなかった。その手が医者のものであることはすぐに気づいた。四年前に暗闇の中で目覚めて以来、何度も感じた手だった。  彼女が医者を呼びに行くことは想像がついていた。おそらく彼女は今、同じ病室内にいて、医者の下す診断を緊張しながら待っているのだろうと想像した。  医者の手によって右腕が持ち上げられ、腕の側面からシーツの感触が消えた。医者の手の皮膚が人差し指を包み込むように握り締めるのがわかった。そのまま医者はマッサージをするように関節を折り曲げた。人差し指の骨に異常がないかどうかを確かめているような手つきだった。  やがて右腕は再びシーツの上に置かれ、医者の触れる感触は暗闇の奥へ消えた。少しの間をおいて、人差し指の先に針の刺される鋭い痛みを感じた。しかしそれがくることはあらかじめ予想していた。自分は痛みに耐え、決して人差し指を動かさなかった。  決心は昨夜のうちに終えていた。夜が終わり、窓から差し込んでいるらしい朝日の温もりを皮膚が感じ始めること、すでに自分の自殺ははじまっていた。妻がいつものように病室を訪れ、指先で皮膚の表面に「おはよう」と書いた。しかし自分は人差し指を動かさなかった。  妻は最初、眠っているのだろうと考えたらしかった。彼女の手の感触は右腕の表面から離れ暗闇の奥に消えた。窓を開けたらしく、外の空気が腕に触れた。外は冷え込みが厳しいらしく、皮膚の感じる空気は痺れを起こすほど冷たかった。毎日、日付を教えられていたので、今が二月であることは知っていた。窓の外を見ながら白い息を吐き出す彼女の姿を自分は想像した。  腕に触れられていないかぎり、目も耳も失われている自分には、だれかが病室内にいようとそれを知ることはできなかった。しかしその朝、窓を開けた彼女がベッドの脇に腰掛け、自分の眠りが覚めるのを待っているらしいことを直感していた。人差し指に、彼女から注がれる視線の圧力があった。自分は決して人差し指を動かさず、ひたすらに沈黙し続けた。  やがて妻は、指が動かないことを異変ととらえたようだった。右腕を軽く叩き、腕に文字を書いた。 「ねえ、起きて。もう昼が近いわよ」  この四年間で彼女の書く文字は話し言葉と同じ複雑さと速さを得ていた。自分はその言葉を、耳で聞くのと同じように皮膚上で理解することができた。  無視して返事をしないでいると、再び彼女は自分が起きるのを待ちはじめた。しばらく時間を置き、腕を叩いて呼びかけた。それを何度か繰り返して昼ごろになったとき、彼女はついに医者を呼んだ。  医者は人差し指だけではなく、右手のひらや小指の関節、手首など、あらゆるところを針で刺した。しかし自分はそれに耐えなければならなかった。ここで痛みに負け、あるいは驚き、人差し指を動かしてしまってはいけなかった。医者や妻に対して、自分はもはや指を動かすことや皮膚の刺激を感じることができなくなったと思わせねばならなかった。そうして自分は、もはや外界と完全に意思の疎通ができない肉の塊なのだと判断してもらわねばならなかった。  やがて医者の刺す針の痛みが消えた。自分は一度も人差し指を動かさず、石のように沈黙し続けることができた。  しばらくの間、右腕にだれも触れなかった。医者が妻に話を聞かせているのだろうと思った。やがて長い時間を経た後、やさしい手の感触が右腕に載せられた。指輪の冷たさを見つけるまでもなくそれが妻の手であることを覚った。  彼女は右手を仰向けの状態に置き直し、皮膚の表面に指を二本、触れさせた。位置や感触からそれが人差し指と中指であることが自分にはわかり、二本の指だけが闇の奥から白々と浮かび上がったように思われた。指先に触れる二つの点は弱々しい感触でしかなく、朧な存在として感じられた。それが腕の表面を肘から手首のほうに向かってそっと滑った。  髪の毛らしい細かな感触が腕に落ち頼りなげに崩れた。濡れた柔らかい圧力を手のひらが受け、彼女の頬が当てられているのだとすぐにわかった。ベッドの横に膝をつき、右手のひらに横顔を載せる彼女の姿が暗闇の中で見えた。  彼女の口から吐き出されたらしい熱い息が手首の表面に軽く衝突し、まるで腕を駆け上がってくるように皮膚上を撫でた。しかし息の気配は肘を通過したところで暗闇の中に掻き消えた。 「あなた、指を動かして」  手の上から頬の感触が消え、腕に指先で文字がなぞられた。 「先生の言うとおり、本当に指を動かせなくなってしまったの?」  彼女は問いかけるようにそう書くと、反応を待つように時間を置いた。指を沈黙させていると、彼女は次々と腕に文字を刻み込んだ。彼女が書いたのは、医者から聞いた診断の報告だった。  人差し指による返答がされなくなったことについて医者は考えあぐねているらしかった。ついに全身麻痺の状態になってしまったのか、それとも指を動かせなくなただけで皮膚感覚はままだあるのか、判断がつきかねた。あるいは心が暗闇にやられてしまい、もはや外界からの刺激に対して何も感じなくなってしまったのかもしれないと、医者は彼女に言っていた。 「あなた、本当は感じているのよね。そして指を動かすことができるのよね」  妻の指先が震えながら腕の表面にゆっくりと書いた。暗闇と無音の世界で自分はその言葉を見つめていた。 「あなたは嘘をついているんだわ」  涙の雫らしいものが腕の表面に落下して何度も弾けた。軒先から降りる雨だれを思い出させた。 「あなたは死んだふりをしているだけなのよね。ねえ、そのまま無視を続けるのなら、私はもうここに来てあげないわよ」  返答を待つように彼女の指は腕から離れた。人差し指が彼女から注がれる視線を感じていた。指を動かさないでいると、彼女はまた腕に書きはじめた。指先の動きは次第に速く、忙しくなっていった。一心不乱に神へ跪き希《こいねが》うような真剣さがそこから感じられた。 「お願いですから、返事をください。でなければ、私はもうあなたの妻であることをやめます」  彼女の指先はそのように書いた。暗闇の向こう側に見えるはずのない泣いている彼女の姿を見た。自分は人差し指を動かさなかった。無音の中でさえはっきりと感じられるほどの沈黙が自分と妻の間に流れた。やがて彼女の指が力なく腕の表面に当てられた。 「ごめんなさい。ありがとう」  彼女の指先はゆっくりと皮膚上で動いた。そして腕の表面から離れ、暗闇に溶けて消えた。  その後も妻は病室を訪れて腕に演奏してくれた。しかし毎日ではなくなり、二日に一回の割合となった。その数もやがて三日に一回となり、ついに妻の来訪は一週間に一度となった。  腕の表面で聴く彼女の演奏から重苦しさが消えた。連続的に弾かれる指の感触は、腕の上で小さな子犬が踊っているようだった。  彼女の演奏に、時折、罪悪感めいたものをみることがあった。自分に対しての負い目だとすぐに気づいた。彼女がそれを感じるのは望むことではなかった。しかし、不思議とその感情が演奏を深くさせた。腕の表面に広がる無音の音楽の中に、許してくださいと運命に乞う彼女の美しい姿を垣間見た。  演奏の前後、彼女は腕に文字を書いて話しかけてきたが、自分は決して返事をしなかった。彼女はそれでもかまわないらしく、物言わぬ肉の塊にひたすら指先で近況報告を書いた。  ある日、右腕の皮膚に恐々とした様子で触れる何者かが現れた。自分は暗闇の中で意識を集中し、それがだれなのかを知ろうとした。妻のものよりも、はるかにその手は小さく、柔らかかった。その隣にいつもの妻の手が置かれたのを感じ、小さな手は娘のものだと覚った。  自分の記憶にあり娘の姿は、まだ妻の胸に抱きかかえられていなければならない小さな子供だった。しかし腕に載せられた彼女の手の感触は、赤ん坊のような意見を伴わない触れ方ではなかった。物言わぬまま横たわる肉体に対して恐れを抱いていながら、それでも好奇心を感じさせる触れ方だった。 「最近、この子にピアノを教えているの」  妻が腕にそう書いた。皮膚の表面から彼女の存在が離れ、自分に触れているのは娘だけとなった。  娘の指は大人のものとくらべて細く先が尖っているらしかった。皮膚の上に感じるその感触は、まるで子猫が爪先立ちをして腕に載っているようだった。  不器用にその指は演奏をはじめた。爪先立ちをした子猫が腕の上で飛び跳ねたり。転んだりしているようだった。妻の弾く曲とは比べ物にならないほど簡単なものだったが、一生懸命に弾いている娘の姿が思い浮かんだ。  娘は妻と共にその後もよく病室を訪れ、腕の上に演奏をしてくれた。時が経つにつれてその演奏は上達し、腕の表面で踊る指先の感触から、彼女の明るい性格に触れることができた。たまにお転婆で飽きっぽい性格が演奏の中に混じっていた。娘が腕の上に織り成していく世界から、おそらくは目で見るよりも深く彼女の成長に接することができた。  やがて娘が小学校にあがるころのことだった。彼女の尖った指先が腕の表面に載せられ、ゆっくりと慎重に文字をなぞった。 「おとうさん」  子供特有のわずかに歪んだ文字だったが、はっきりと娘はそう書いた。  やがて長い時間が過ぎた。どれほどの年月が過ぎたのかを自分に教えてくれる人間はいなくなり、正確な日付を知ることはできなくなっていた。いつからか妻は自分のもとを訪れなくなっていた。それと同時に娘が来ることもなくなった。  妻の身に何かか起こったのか、それともただ忘れらてしまっただけなのか、定かではなかった。彼女の状況を自分に教えてくれる人間はおらず、ただ想像するしかなかった。生きるのに忙しく肉塊となった夫のことを思い出す暇さえないというのであれば自分は嬉しかった。彼女は物言わぬ塊に関わってはいけなかった。忘れてしまっているということがもっとも望ましいことだった。  最後に娘の演奏を腕の皮膚上で聞いたとき、彼女は妻と同じ程度に上達していた。病室にこなくなって久しいが、すでに娘は成人しているはずだった。あるいは結婚し、孫を産んでいるのかもしれなかった。時間の経過は判然とせず、娘が現在、何歳なのかを知ることはできなかった。  そもそも、自分がどれほど年老いているのかさえわからなかった。妻はもしかすると老衰で死んでしまったのかもしれないとさえ考えた。  自分は暗闇と無音の世界にいた。シーツの上に載せられた腕へ日差しが当たることもなくなっていた。どうやらベッドを移動させられ、窓のない部屋に移されたのだろうかと考えた。それでも世界が滅びていないらしいとわかるのは、自分がまだ人工呼吸器と点滴によって生かされているからだった。  自分は使わないものを置いておくように病院の片隅へ寝かされているのだろうと想像した。そこはおそらく物置のような部屋で、自分の周囲には埃を被った様々なものがあるのだろうと思った。  腕にだれかが触れることはもうなくなっていた。医者や看護婦にも存在を忘れ去られ、また、自分はそれでも良いと思っていた。時折、力を込めてみると、まだ人差し指は上下に動いた。  腕の上にはまだ妻や娘の生み出した演奏の感触が残っていた。それを暗闇の中で思い出しながら、今も外界で起こっているはずの様々なことを想像した。人は今日も歌っているのだろうか、音楽を聴いているのだろうか。自分が物言わぬ塊として物置に置かれているときも時間は流れすぎているのだ。自分は無音の暗闇にいるがその間にも世界は音と光に満ちているのだろう。大勢の人間が地上に生き、生活し、笑ったり泣いたりを繰り返しているに違いなかった。永遠に失われた光景を夢見ながら自分は静かに暗闇に身を委ねた。